以前ワシントンホテルにあったNHKカルチャーセンターで5年程講座を持っていましたが、子どもの誕生に合わせて活動を縮小していました。
現在は、市民センターなどへの出張レッスンという形で、青森で活躍するアナウンサーさんやタレントさんを担当させていただいています。
ちなみに、テクニックとしての歌を教えるレッスンではありません。
声の出し方を理解してもらい、複式呼吸をマスターして、ハリのある豊かな声で話したり歌ったりできるように指導を行なっています。
もし、ご興味ある方いましたら連絡ください♪
オレはどこから来たのか。先祖は縄文人!?
誕生日が近づくと頭に浮かぶこと。
それは、
オレはどこから来たのか。という問い。
いわゆるどこから来てどこへ行くのかという観念的な問いではなく、アフリカを起源とする人類が拡散して世界中に散らばり、気の遠くなるような年月を経ていつしか日本にオレが生まれたのだとしたらその変遷を知りたい。どうやって日本にやって来たのか。ルーツはどういう特徴を持っているのか。
そしてどうせなら仕事柄、縄文人だったのか弥生人だったのかはっきりさせたい(笑)
というわけで、GeneLifeという商品で遺伝子検査をしてみた。
これは、注射器で採血するでもなく細胞を切り取るでもなく、ただ送られて来た容器に唾液を入れて送り返すだけ。
それだけで、 遺伝的な傾向や体質など約360項目を解析できる。 もちろん祖先のルーツ(ハプログループ)も。
ちなみに、どうやってわかるかというと、遺伝子(DNA)の中にある、時代を経ても混ざり合わずに受け継がれる特定のしるしがあり、それを解析すると自分が人類の歴史の中でどのルートを辿ってきたのかを知ることができるようだ。
具体的には、Y染色体からわかる父方(父親の、そのまた父親の…)のルーツとミトコンドリアからわかる母方(母親の、そのまた母親の…)のルーツだ。
※「ハプロ」とは、「共通の祖先を持つ集団の分類」のこと。
さて、オレは一体どういうグループだったのか。
送付してから3週間くらいで結果が出た。
自然と共生して一万年平和に暮らしたという縄文人だったらいいなという期待が募る。もう11年も縄文業界にいる身としては少なからず縄文人に憧れている部分がある。
別に弥生人が嫌いなわけじゃない(笑)ただ、農耕稲作より採集・漁労・狩猟で食べ物を分け合い生きていた縄文人にシンパシーを感じるのだ。
では、結果を発表しよう!
父方のルーツは、 日本人男性の約35%を占める縄文系由来のグループ。日本、チベット、アンダマン諸島 (インドの東、ベンガル湾に浮かぶ島)に特有の分布が見られ、 国内では特にアイヌ人や琉球人に多い。
母方のルーツは、日本人の約3%が属しているグループでエネルギー効率の高い系統。チベット起源で高地・低酸素に強く、疲れにくい。インドネシア、中央・東アジア、沖縄、北海道を移動して日本に入ってきたと考えられる。
さらにそれぞれのハプログループを調べると、オレは縄文時代前期には存在した縄文人ルーツの父方と縄文時代の終わり頃に日本にやってきた渡来人ルーツの母方の血が流れているらしいことがわかる。
うむうむ、縄文人系だったか、よしよし。なんかひと安心(笑) しかし、なかなかレアな組み合わせなのかも知れない。なんと言っても母方は日本に3%しかいないのだから。
両親に、そしてご先祖さまに感謝してこれからも生きていかねばと思う。今回の遺伝子検査は、そのいい機会となったな。
そして、あのヒマラヤ山脈を有するチベットにルーツがあるのかと思うと感慨深い。そういえば、結構長く走ってもあまり疲れないし、高山病になったこともない。
これは、そういうことなのかもしれない。
しかも前職がエスニック雑貨屋だったのは、遺伝子レベルで導かれていたのかもと思ってしまう。チベット仏教に関するものも販売していたし好きだった。5色の旗タルチョやドルジェ、ティンシャ、シンキングボール、マニ車、タンカ(仏画)などなど。個人で所有しているものも多い。
オレの中で今、何度目かのチベットブームが来ている。
チベット仏教もこの機会に書物で学んでみようと思う。
チベット、いつか訪れてみたいぜ!!
写真は縄文人ルーツの父とオレ
デビュー30周年を迎える音楽活動の軌跡 ~熱い想いを持つ社長との出会い~
ふと気がついた。
今年、デビュー30周年だ。
16歳からバンドで歌い出して、30歳でデビュー。
どんなきっかけがあったのか、この機会に振り返ってみようと思う。
本当にやりたい事をやろうとサラリーマンを2年で辞めたオレはすぐ東京に向かい、作詞作曲をし、時にはバンドで時にはソロで音楽活動を継続して行った。
何度かチャンスが巡っては来たが、デビューさせてくれた業界人に出会えたのは28歳のときだった。
その一年前にバンドを解散したオレは、音楽に集中する環境を作るために長時間拘束の仕事をやめて短時間のバイトに変え、アパートも家賃の安い物件に引っ越した。
すると、新しいバイト先に近所に住むパンクなベーシストがいて、相棒のギタリストがいるがボーカルとドラムがいないという。
話をするたびに仲良くなり、一回スタジオに入って遊ぼうということになった。
ドラムもバイト先の系列店舗にいる若者がやって来た。
音楽の好みはバラバラだった。
だがそれが良かったんだと思う。
パンクロック系のベースとギター、ブルースロック系のドラムで、一緒にスタジオに入ったら、妙にフィットして楽しいセッションになった。
ドラム以外はバイク仲間でもあった。
男ばかり集まっては、東京からバイクで観音崎の初日の出を観に行ったりもした。
それまでのバンドは完全プロ志向のメンバーばかりで、一緒にライブ観戦に行く事はあっても遊ぶことはあまり無かった。
その時のオレたちは、一緒にプロになろうぜという感じでも無く、それぞれがたまたまフリーだったからちょっとバンドでも組んでみるかみたいな感じだった。
そのうちライブもするようになり、動員も増え、そのユルいノリでデモテープを作り、いろんな音楽事務所に送ってみた。すると聖飢魔IIやアースシェイカーが所属する音楽事務所ミュージックチェイスからライブを観に行きたいと連絡があった。下北沢シェルターでのライブに来てくれた岩井社長やGLAYの事務所の社長など数名の業界人から名刺を貰った。
その後、事務所に呼ばれ、CDを作ることになった。
当初は、オムニバスCDに参加の予定が、レーベルの第3弾アーティストとしてフルアルバムでデビューしないかと誘われた。
ここでオレはこのバンドで行こうと腹を決めた。
というのも実はオレには、もうひとつ同時進行中のプロジェクトがあった。
GENDA×BENDA(ジェンダベンダ)というバンドが解散し、そこのギターがオレと昔からのセッション仲間で、オレを新しいバンドのボーカルに誘っていたのだ。
彼の以前のバンドは、ZIGGYやリンドバーグのいるパブリックイメージという事務所に所属していて、オレの歌を社長に聴かせていた。
リズム隊は、元パッセンジャーズの二人になる予定だった。
ギターの彼はその後、バンドを作らず作詞家となって、元パールの田村直美などに詩を提供するようになった。
そっちのバンドをとっていたらどうなっていたのか。また違う人生だったのかもしれない。
その時、決め手となったのはもちろん仲間の存在だが、ミュージックチェイスの社長の熱い想いもうれしかった。
「オレは、本当に良いロックミュージックを世の中に出していきたい。うちのようないわゆる音楽事務所がレコード会社にバンドを売り込みに行くのではなく、avexという事務所がレーベルを持ってレコード会社を凌駕している今、オレもフライハイトというレーベルを作り、そこを同じようにデカくして行きたい」
彼はそう言った。
そして、第一弾アーティストはCOLTS、第二弾には人間椅子が決まっていることを教えてくれた。
事務所を出たあと、メンバー4人で行った代々木の居酒屋での乾杯が旨かったのを覚えてる。
これからどうなるんだろうという期待でいっぱいだった。
楽しい夜だった![]()

ギタリスト打田十紀夫先生のブルースライブ
先日、BAR MIMOSAにて行われた打田十紀夫ライブを観戦した。
オリジナルCD以外に教則本などの書籍も多数出版されており、全国にアコースティック・ブルース&ラグタイムの素晴らしさを伝える名ギタリストだ。
実は、オレのギターの先生で、少しの間、幡ヶ谷のギタースクールで習ったことがある。
当時のオレは、40歳くらいで古い弾き語りのブルースにハマっていた。
行きつけの吉祥寺のショップでブラインド・ボーイ・フラーが流れていて興味を持ったのがきっかけだったような気がする。
ずっとロックバンドをやっていたオレは、60年代70年代のロックを遡って愛聴していたが、ブルースに関してもBBキングなどのバンド編成のものばかりを聴いていた。
弾き語りスタイルのブルースは、一番有名なロバジョンだけは聴いたことがあったのだが、全然ハマらずにいた。
それ系をいろいろ聴いていくうちに、ライトニン・ホプキンスがオレの一番のお気に入りとなった。
もともと聴くだけでは満足できないタイプなので、しばらくしてこれを演奏してみたいと思うようになった。
ネットで探すと、アコースティックギターでブルースを学べるところは本当に少なかったが、TABギタースクールというところが見つかった。
打田先生のスクールだった。
すぐに入会して、レッスンを受け始めた。
ライトニン・ホプキンスを弾き語りしたいというオレだったが、まずは課題曲としてミシシッピ・ジョンハートを弾いてみようと提案された。
今思えばやさしめの曲だったのかもしれないが、アコギのアルペジオやスリーフィンガーは出来てもなかなか難しかったことを思い出す。
その後、オレは親の体調が思わしくなくなり、レッスンを受け始めて一年も経たずに、東京から青森に帰ることになったのだった。
当時先生は、全国でのライブを行っていなかったので、こうして青森で再会できるのは本当にうれしい。
今回のライブMCでは、2年前に脳出血を患ってから健康志向になった話やオリジナルグッズのふんどしが出来た経緯、大好きなジャイアント馬場のものまねまで披露していただき相変わらず楽しいライブだった。
現在67歳になったという先生が帰り際、「まだやってるんでしょ」とオレに問いかけた。
たまにイベントで弾き語りしたり、SNSにロック調の童謡弾き語りを投稿してますと言うと、「いいですね、ギターはずっとやってくださいね」と笑顔で話してくれた。
音楽が結ぶ縁に導かれて出会った仲間、友人、先輩、バンドメンバーというのは不思議なスタンスで存在している。
その時々のそれぞれの環境で音楽への関わり方は違えど、何故かキープオンロッキン的なエールを送りたくなるものだ。
今回、オレも先生との何気ない会話からエールをいただいて、久しぶりにアコースティックブルースギターを弾きたくなった。
先生、モチベーションをありがとうございます。
来年も来てくださいね。
また聴きに行きます♪

人生の転機に出会った谷川俊太郎の詩
あれは26のとき
高円寺のむげん堂で働きながらバンド活動をしていた
インド雑貨屋の仕事は仲間にも恵まれ楽しかった
金髪長髪なのに、誘われてバイトから社員になっていた
10時間働いてたまにスタジオで2時間のバンド練習
3か月に一度のライブ
毎日が充実していたが、これでプロミュージシャンになれるのかとある日思った
もっと曲を作る時間が欲しい、ボーカルやギターを学ぶ時間が欲しい
悩んだオレは、生活レベルを落としてお金をあまり必要としない生活をしようと思いつく
出るお金を半分にすれば、必要なお金も半分でいい
家賃の安い風呂なしアパートに引っ越し、あまりバイトをしない
出来た時間は全て音楽のために使う
本気でプロになるため、オレは大好きなむげん堂を辞めてそれを実行した
そのとき、暗黒舞踏の活動をやりながら経理をしていたおじさんから2冊の本をもらった
一冊は、ジャック・ロンドン自伝的物語
これは、確実にオレに火をつけた
そして、もう一冊は谷川俊太郎『はだか』
日本で食えてる詩人はこの人だけだよと教えてくれた
さようならという詩は、そのときの覚悟にシンクロした
そうして音楽三昧の暮らしを始めたオレは、翌々年にCDをリリースすることとなった
そういやあ、その後聖飢魔IIの事務所にお世話になることになり、社長に「なんで風呂無しに住んでんの」と聞かれ、「ハングリー精神ですよ(ビシッ!)」って答えたオレは青かったなぁ笑

さようなら 谷川俊太郎
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない