Ryu's Rock Life Blog

シンガーソングライター、ボーカリスト、ボイストレーナーとして活動するRyuのブログ

NHK文化センター青森教室が終了

オレがボイトレの講座を受け持っているNHK文化センター青森教室が、令和元年12月末をもってその幕を下ろした。

経営不振からではなく、『会場である青森ワシントンホテルが売却され、共同事業先が無くなったため』との説明を文書で受けた。

どうやらホテルは外資系の企業が買ったらしい。

 

残念だ。

 

ここで5年間、ボイストレーニング講師をやって来た。

 

始まりは偶然だった。

別の仕事で知り合った青森支社長と雑談をしていたときに、東京で音楽教室を開いていたことを話すと、青森でもぜひやってください!と言われ、青森のみなさんの役に立ちたいと思い、オッケーした。

ボイストレーニング講座をやりたいと伝えたところ、「ボイストレーニング」という言葉はすでに他の講師が講座名として使用しているため使えないとのことで他の名前を考えることになった。

 

なんとかその効果を分かり易く伝えようと苦心して生まれた講座が以下の3つだ。

「3ヶ月でハリのある豊かな声になろう」

「歌声が変わる呼吸と発声」

「はじめてのボイトレ」

 

講座は、公式サイトと地域に配られるチラシで宣伝していただけるのだが、講座名とそれに付随する3行くらいのコメントによって全く集客が変わってくる。

広告とは難しいものだ。

ちなみに、このうちのひとつはとても人気が出て、その噂を聞きつけた他県のNHK文化センター教室から、講座名を使わせてもらえないかと打診があった。集客力のある講座名だとそいういうこともあるのかと驚いた。

結果的にオッケーしたけれど、自分の講座名ぐらい自分で考えなさいと思ったものだ(笑)

 

また、上記の3つは、グループレッスンだったので、生徒さん同士が仲良くなり、オレを含めて8人くらいでカラオケに行ったこともある。

しかし、先生と呼ばれてカラオケに行くのはまあまあツライ。

歌う前からかなりハードルが上がっている(笑)

そして生徒さんたちがみんな上手い上手い。

やはりボイトレ講座を受講しようという熱意がある方々なので、カラオケも真剣な表情でガチで歌っている。

オレもついつい、チカラが入った。

それも今となっては楽しい思い出だ。

 

 

また、本気で歌手や声優を目指している人を応援したくて、個人レッスンも行っていた。

中でも声優になりたくて、高1からレッスンに通っていた女の子はこの春から本格的に声優の学校に入学するらしい。

彼女は、レッスンしている間にいろんな声優の学校の体験入学に行ったのだが、どこの学校でもその発声と声量を褒められたらしい。

オレとしては嬉しい限りだ。

 

 

昨年からは、「声のアンチエイジング」というグループ講座も行った。

父を誤嚥性肺炎で亡くしているので、そういうことにならないよう、嚥下機能を若々しく保つトレーニングを含んだ複合的なボイストレーニングの講座だ。

主に高齢者の方々にオススメしたいと思って始めたが、結果として予防意識の高い50代の女性にも多数参加していただいた。

こちらは、「ボイストレーニング」は、敷居が高いと思っていた方々に最適な講座名だったようだ。

「声のアンチエイジング」に参加され、楽しくなり、次に「ボイストレーニング」へ参加された方もおり、嬉しい結果となった。

 

 

5年間、講座を行って来たことで、たくさんの素敵なご縁をいただいた。

オレの講座を受講してくださった生徒さんみなさんが、自分の声を好きになり自信を持って話したり歌ったりしていることを願います。

オレの「ボイストレーニング」講座は、またいつかどこかで再開できたらと思っています。

 ありがとうございました!

SUGIZOとAIONの打ち上げで飲んだ夜を思い出す

ヤフーニュースでSUGIZOの記事を読んだ
娘の誕生が、ひどい生き方を変えるきっかけになったと書いてあった
あのままだったら、今頃は檻の中かこの世にいなかったと...

LUNA SEAX JAPANのギタリストとして有名な彼
一度、一緒に飲んだことがある

あれは、彼のバンドがまだLUNACYという表記の頃

オレは当時やっていたバンドのギタリストに連れられて目黒の鹿鳴館にAIONというバンドを観に行った

AIONは、関西で有名なヘヴィメタルバンドで東京でも人気があった
派手なヴィジュアルで凄腕ギタリストが引っ張る、ヘヴィなステージだった

その凄腕ギタリストがうちのギタリストの師匠らしく、ライブ終わりに打ち上げに参加することになった

打ち上げ会場の居酒屋で待っていると、メンバーと共に黒服の軍団がやって来た

コムデギャルソンのようなオシャレな幅広のパンツスーツを着こなした5人組
それがLUNACYだった

 

20人くらいの打ち上げで、いろんなバンドもいるし、せっかくだからということで、バンドごとに固まらずバラバラに座って飲もうということになった

オレの席は4人

オレの隣にSUGIZO、その隣にAIONのドラムの方がいた

SUGIZOは、バンドマンにありがちなワルぶってる感じもなく、とても好感の持てる20代前半の真面目な青年で、もちろんその頃からイケメンだった

 

「今度、町田のプレイハウスでワンマンやるんです 見に来てもらえませんか?」

そう言われたのを覚えている

また、そのライブは黒服限定と言って黒い服の人だけが入場できるものなんですとも言っていた

それに対して、「都内でやるときには行くから連絡して」と答えたオレ

新宿JAM、新宿アンティノック、渋谷ラ・ママ、三軒茶屋ヘブンズドア、吉祥寺曼荼羅などでライブをしていたオレは、都内にいっぱい魅力的なライブハウスがあるのになぜ町田にこだわるんだろうと思っていた

 

アホだった

今ならわかる

彼らにとって町田は地元

町田プレイハウスはホームグラウンドだったんだ

そして、そこを大事にしていたんだ

 

プロを目指し、地元での活動をほとんどぜずに急いで東京に出てきたオレには、ホームグラウンドと呼べるライブハウスを持つという感覚がなかった

道場破りのような感じで有名ライブハウスのオーディションを受けては、がむしゃらに次々と出演して行った
しかし、そこで出会った縁もある

だから、良かったのか悪かったのかはわからないが、ホームを持つことは素晴らしいし、楽しいだろうなと思う
ホームできちんとワンマンをして、それから都内全域で活動していったLUNACYは、地元のファンも大切にしていたんだと思う それは素敵だ

 

その翌年、音楽雑誌ロッキンfのライブイベントに出演してからのLUNACYは一気にスターダムに駆け上がっていった

それから10年後くらいには、オレの友達のバンドが彼のレーベルからCDを出したり、友達がベースでSUGIZOとバンドをやったりした

その度に、あの日の夜のことを思い出した
 

オレたちはあの日、酒を飲みながら音楽の話だけを延々とした

ロックが好きで好きで堪らない男たちだけで、夢中で語り合った

バンドマン同士、ロッカー同士、一緒の時代を生きていたと言えるかもしれない

しかし、それだけだ

人生は一期一会

彼は友達ではない

でも、何故か彼らのCDは聞かなかったが、彼のことはずっと気になっていた

 因みに、あの時に一緒に飲んだAIONのドラムの方は近年亡くなられたらしい

時はかなり流れた

 

記事を読んで、売れる前に出会ったピュアな青年SUGIZOが、いろんな経験をしていることに、勝手にそうかそうか大変だったなとうなづき
勝手にそうだよなそうだよなと共感し、音楽以外でも素敵なことをしているな〜と思った

 

人はきっかけさえあれば変われる か、

良かったなSUGIZO

友達じゃないけど嬉しいよ

 

オレには一ヶ月前に産まれた息子がいる

オレも変わるかもしれないな

何の「きっかけ」になったかは、いつか振り返ったときにわかるんだろう

変わるのは嫌いじゃない

変化を楽しむ事にしよう

息子よ、先に言っとくぞ

きっかけを、ありがとう!!

誕生

こどもがうまれた

3500gの息子が今日この世にやって来た

その産声はとても美しい声だった

ほとんど濁っていないオギャーだった

こんなにきれいなオギャーってあるのかと思ったほどだ

テレビ等で知っていた赤ちゃんの泣き声とは全く違った


しかし

これがいわゆる親バカっていうヤツなんだろう(笑)


もう、ただひたすらにかわいい(笑)

息をする

くしゃみをする

手足をバタバタする

俺の指を握る

全部かわいい(笑)


そして、俺の奥さんありがとう

心の底からお疲れ様

頑張ったね

その姿、忘れないよ

なんでも見ればいいってもんじゃないと思ってたけど、出産に立会えて本当に良かった

素敵な時間だった

 


なあ、おやじとおふくろ

俺がうまれたとき、きっとこうやってふたりで喜んでくれたんだね

そして愛情いっぱいに育ててくれた

本当にありがとう

 


さあさあさあ、親になるぞーーー

こうしちゃいられない

でっかい息子がやって来たんだ

でっかい親になるぞ!!

ボイストレーナーになったきっかけ

歌手になりたくて20歳でサラリーマンを辞めた。
上京して、ミュージシャンとしてCDデビューするまでにいくつものバンドに参加した。

当時、バンドのメンバーを探すには、スタジオの貼り紙か音楽雑誌のメンバー募集欄が頼りだった。雑誌の中で一番メンバー募集欄が多いのが、プレイヤーという雑誌で、オレも毎月購入していた。
24歳の時にそこで、趣味が合いそうなバンドで『ボーカル募集。完全プロ志向。当方、事務所に入っていてデビューが決定しています。』というのを見つけた。

 

オーディションで彼らと音を出した瞬間にとてもキモチ良かったのを覚えている。ギターとベースとドラムがばっちり合っていて、オレは自由に歌うだけで良かった。
デビューが決まっているバンドはやっぱりスゴイな、カッコいいなと思った。
音は、ストリートスライダースやシェイディドールズの様なローリングストーンズ寄りでオレの作る曲調とも合っていた。

そのオーディションに受かったオレは、それから2、3年の間、彼らとバンド活動をした。
シオンやコレクターズ、デル・ジベットなどが在籍する事務所で、いいライブを組んでくれたり、作詞家の岡本おさみさんを紹介してくれて、オレの歌詞を見てもらったりした。事務所の好意でオレの好きなシオンのライブは何回も観させてもらった。

 

そんな順風満帆だと思っていたある日のこと、スタジオに入ると突然ベーシストが「みんなごめん。オレ辞める」と言った。
彼女に子どもができたと。みんなと夢を追うのはもうできない、と。
今ならその切ない気持ちが痛いほど良くわかるが、その当時は、バンドに人生を賭けているのにーと、やり切れない思いでいっぱいだった。
それでも関係は壊れることなく、みんなでおもちゃを買って、生れた子どもに会いに行ったりした。彼は結婚して幸せそうだった。

 

バンドはというと、ベーシストが辞めるタイミングで、ドラマーがびっくりすることを言った。
「オレ、ボーカリストに転向したい」
もう、バンドは解散するしかなかった。


それからドラマーだった彼は、アコースティックギターで弾き語りを始めた。
ある日、電話があった。
Ryuくんみたいに大きい声で歌いたい。教えて欲しい、と。
人に教えたことはないし、どうしたものかなと考えたが、彼はとてもいい声をしていたし、仲間を応援したかったのでやってみることにした。

 

先ずは、自分がどうやって大きい声で歌えるようになったのかを思い出してみた。
ハタチからいろんなバンドをやって来た中で、スパルタでオレを凄いボーカリストにしようとしてくれたギタリストがいた。
彼は、バイトの先輩にアイボリーゲートというヨーロッパでも有名な日本のハードロックバンドのミュージシャンがいて、しきりにボーカルの大切さを聞かされていたらしく、オレを徹底的にしごいた(笑)

 

一日おきに一緒にスタジオに入り、ピアノを使って低い音から高い音まで2時間きっちり限界まで声出しをした。半年以上やったと思う。
彼もボイストレーナーではないから、理論は一切なく、感覚的なトレーニングだったが、今思えば、昔の演歌歌手が毎日山に向かって練習してましたと言うのと似ている気がする。
要は、日々の努力。その中で、これか!というコツを掴む瞬間が訪れる。
そうすればしめたものだ。そこから声をどんどん磨いて行けばいいのだ。
オレはそこで、腹式呼吸と喉を開いて歌うコツを掴んだ。

 

その後、ドラマーだった彼と一緒にスタジオに入って特訓をした。
彼は、コツを掴んでいいボーカリストになった。
テレビ東京アマチュアミュージシャン参加の番組でグランドチャンピオンにもなった。
誰にも言っていないが、オレがボイストレーナーになったきっかけは彼だ。
彼がいいボーカリストになったから、人に教えてもいいと思った。
いつか一緒に飲んでそんな話をしたいな。

 

オレは、バンド仲間に鍛えられ、その後、二つの音楽スクールでボーカルを学んだ。

一人は日本人でもう一人の先生は、イギリス人だった。
教えてもらうというのは、素晴らしい経験だった。
モチベーションも上がるし、自分のボーカリストとしてのカラーもわかる。そして何よりひとりよがりにならなくて済む。

ただ、オレは歌(ボーカル)は教えないことにしている。
ボイストレーナーとして、呼吸と発声をしっかり教えて、それが出来るようになったら自由に歌って欲しい。
歌(ボーカル)は、その人なりの表現じゃなくちゃ面白くない。
オレもバンドで歌うときは、いっさい上手く歌おうと思わないし、ビブラート等のテクニックを使おうとも思わない。
感情のままに歌う。それだけだ。
やってるのがロックだからかも知れないが、そうじゃなきゃ面白くない(笑)
なんだって面白くなきゃね。
 ボイストレーナーらしくないかも知れないけど、歌は自由に楽しく歌うのが一番だ(笑)